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縄文時代のみたか

約13,000〜2,300年前
 縄文時代は、氷期であった旧石器時代から温暖化し、現在の気温とほぼ変わりなくなります。三鷹市域のある武蔵野台地は、縄文時代約10,000年間を通じて常に人々が生活する、縄文文化の主要な舞台のひとつでした。三鷹市域では、縄文時代の6時期区分のうち、草創期と晩期の生活の痕跡が比較的希薄ですが、それ以外の時期の遺跡は数多く、大規模なムラが築かれたこともありました。縄文時代の人々は、旧石器時代と比べると移動が少なく、小河川沿いの台地上に竪穴状に掘り込んだ住居を構え、河川の水場を利用して狩猟・採集あるいは植物の栽培などを行っていたと考えられています。拠点のムラが作られ、住居や墓域の配置に、強いルールがうかがわれるようになるのも縄文時代のことです。6時期の区分ごとに三鷹の縄文時代を紹介します。
1 草創期の遺跡と遺物
 旧石器時代末から縄文時代への移行期を含む時期です。晩氷期ともいわれ、平均気温が現在と変わらないまでに短期間に一気に上った気候の大変動期と考えられています。
 市域からは、最古の土器とされる無文土器や刺突文土器に後続する隆線文(りゅうせんもん)系土器と、大型の尖頭器を含む石器群が、井の頭池遺跡群Aで出土しています。

2 早期の遺跡と遺物
 気候も温暖のまま安定している時期です。住居跡の形が定型化します。住居の中に炉を作ることは少なく、炉穴と呼ばれる屋外炉が早期後半には盛んに作られています。

井の頭池遺跡群B:井草T式(撚糸文(よりいともん)系土器第T様式・約9,000年前)の住居跡が井の頭池遺跡群Bで検出されています。長軸約3m、短軸約1.8mの不整楕円形で、住居の中に炉はなく、2個体分程度の土器と、石器や台石が床面に残されていました。
 この時期の住居跡は、都内でもこれまで2軒しか報告例がありません。

隆線文系土器(井の頭池遺跡群A)


早期前半の住居跡(井の頭池遺跡群A)



住居跡から出土した土器と石器
井の頭池遺跡群A:早期後半(約7,000年前)の炉穴が群集して発見されています。炉穴は、井の頭池の湧水地点を囲む斜面地を中心に、広い範囲で分布していることが判明しています。
近年の調査によって、炉穴と重複して住居跡が1軒発見されました。この住居の中に炉はなく、北海道〜東北地方で出土例の多いトランシェ様石器が住居跡の中から見つかっています。共に出土した土器は、砕片が多く、細分時期については不明です。


3 前期の遺跡と遺物
 前期には一時的に地球規模の温暖化が進み、現在よりも高い気温になったと考えられています。このため縄文海進とよばれる海面上昇がありました。現在の栃木県藤岡町周辺まで海になったと考えられています。三鷹市域の標高はおよそ40〜56m程度のため、地形的な影響はありません。

井の頭池遺跡群A:巨大な陥(おと)し穴と考えられる遺構が発見されています。遺構の直径は約2.3m、深さは2m以上もありました。遺構は円筒形で底部施設はなく、平坦な形状でした。遺構の覆土中と周辺に、前期の土器が散漫に出土しています。

諸磯b式土器
 市域では、今のところ前期の遺跡の発見例はあまり多くありませんが、仙川や入間川流域の台地上で、諸磯(もろいそ)式土器が数個体まとまって発見される例があります。写真は中西遺跡で陥し穴のそばから出土した土器1個体分です。



4 中期の遺跡と遺物

 東日本全体で、もっとも遺跡数が増えるのがこの時期です。三鷹市域でもほとんどの遺跡から中期の遺物が出土しています。

地域の拠点のムラ
 武蔵野台地に数多い中期の集落跡の中で、拠点集落と考えられているのは20ヶ所程度ですが、市立第五中学校遺跡は、その内のひとつです。現在までに発見された住居跡数は98軒を数え、集落全体では200軒程度の住居跡があるとみられます。遺跡は蛇行する仙川の張り出し台地に立地しており、住居の配置にも規則性がうかがえます。また仙川を挟んだ対岸の北野遺跡にも、同じ時期の集落が営まれています。

早期後半の住居跡(井の頭池遺跡群A)


巨大陥し穴(井の頭池遺跡群A)



諸磯b式土器(中西遺跡)




蛙?をモチーフとする土器
(市立第五中学校遺跡)
井の頭池遺跡群A井の頭池最奥部の湧水地点を取り囲む台地上に、中期の集落跡が発見されています。集落の時期は、勝坂2式から後期初頭称名寺式期まで。現在までに20軒ほどの住居跡が発見されています。
写真は中期末(加曽利EW式)のものです。円形の主体部に、張り出した入り口がつけられており、その平面形から柄鏡(えかがみ)形住居跡とよばれている、この時期独特の特異なものです。中期の住居跡は、池を囲む台地上に点々存在しており、全体の規則性等については、まだ不明な点が多いようです。

縄文のアクセサリー
 井の頭池遺跡群Bの住居跡から、大珠とよばれる石製ペンダントが出土しています。翡翠(ひすい)に似た色ですが石材は蛇文岩と鑑定されています。南関東地方では出土例も少なくとても貴重な資料です。
長さ6.6cm、幅3.9cm、厚さ1.4cm、重さ65g

柄鏡形住居跡(井の頭池遺跡群A)


縄文アクセサリー 大珠

5 後期の遺跡と遺物
 武蔵野台地では、後期になると遺跡の数は激減します。また集落の立地環境も変化し、低地で河川や湧水を利用した遺構の検出例が増加します。

丸山A・B遺跡:神田川の最上流域に展開する遺跡です。神田川右岸の台地上をA、河道に沿った低地部分をBと呼称しています。
 この遺跡では、かつて炭化したクルミが土器と共に発見され、また、泥炭質土中から大量の土器が発見されており、良好な水場遺構が埋蔵されている可能性があります。
 また台地上には墓とみられる土坑群や祭祀の場と考えられる、土坑を伴う焼土遺構が発見されています。土器の時期は称名寺式から加曽利B式が多く、長期存続した、拠点集落と考えられます。

土坑墓群?祭祀遺構?
 神田川に沿った台地上の一角に、後期の墓とみられる土坑群が発見されています。また隣接して、これより小型の土坑を伴った、焼土遺構の存在が確認されています。
土坑墓とみられる遺構は、平面が小判形で小型の碗形土器が埋納されている例が多く、また大型粗製土器が壊されて埋納されるものもあります。
 焼土遺構は直径50cm、深さ1m程度のものが複数重複して掘り込まれており、土坑の上部で、火を焚いた痕跡が焼土として遺存していました。


土坑墓群(丸山A遺跡)


後期焼土遺構(丸山A遺跡)

6 晩期の遺跡と遺物
 関東地方全体で遺跡の数は激減します。市域では、これまでのところ古八幡遺跡で土器が出土しているのみです。

晩期大洞(おおぼら)系土器(古八幡遺跡)