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中近世のみたか

13世紀〜
奈良・平安時代以降、中世の全般を通じて、市域に人の痕跡は希薄です。こうした中、18世紀に編纂された『新編武蔵風土記稿(しんぺんむさしふどきこう)』には、上仙川村(現在の新川・中原地区の一部に相当します)に、中世には金子氏という武士の屋敷が、また近世には旗本柴田氏の陣屋(じんや)があったことが記録されています。江戸時代の終わり頃にまとめられたこの記録が、およそ200年後の発掘調査によって裏付けられました。

島屋敷遺跡:島屋敷とは、風土記稿編纂時に伝承として残っていた名前です。発掘調査によって判明した中世島屋敷遺跡は、最も古いもので13世紀の遺物が出土しており、15世紀(中世)と17世紀(近世)に遺物の時期のピークがあります。
 中世の屋敷は仙川右岸の独立丘に造られており、屋敷に隣接して地下式坑(お墓)を造営していました。その後近世に至り、同じ場所に陣屋が建てられました。
 陣屋は主体となる建物の南側に池を造成していますが、この際にかつてあった地下式坑を破壊しています。これらの屋敷や陣屋は、単独の建物や施設ではなく、島状地形全体を溝で区画し、畠や水田や、これらを耕作する人々の家をも含んだ、集落としての拡がりをもつことが判明しています。
 新編武蔵風土記稿に記録された光景は、直接には、近世に作られた陣屋跡を示すと考えられます。築山や池などは、当時もなお、埋まりきらずに残っていたものでしょう。発掘調査は、現在も断続的に行われており、屋敷の主を直接示すような資料の発見や、多聞院の実在の真否など、なお未解決な問題について研究が進められています。

島屋敷遺跡全体写真


心字池


島屋敷『新編武蔵風土記稿』より
      現代仮名遣いに改めたもの
村の中ほどにある。(中略)ここはかつて金子時光(かねこときみつ)が館を置いた跡であり、天正(1573〜1592年)の頃にはその孫金子弾正(かねこだんじょう)というものが棲んでいたという。その後柴田三左衛門(勝重)がこの地を幕府より賜り、ここに居留していたという。
当時はカラタチの木で垣根をめぐらせ、四方を水田に囲まれ、瓶を伏せたような地形であった(中略)ここには花畠という地名も残っており、昔の花場があった跡であるという。(中略)築山や池の跡が僅かに残っている。花畠より東に廃寺の跡があり、これは今の深大寺多聞院のあった場所である。

板碑出土状況