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大沢の遺跡11

〜大沢はなぜ遺跡の宝庫なのだろうか〜
大沢の遺跡発見・発掘史素描
 今から100年以上も前の明治32(1899)年、根本栄氏は東京人類学雑誌に「武州北多摩郡三鷹村発見の石鏃」という報文を発表しました。これはおそらく現在でいうI.C.U.構内遺跡で採集された石鏃(やじり)のようです。この発見が大沢第1号の遺跡です。
 その約50年後の昭和20年代には、地元大沢の方が同遺跡から、石鏃や石槍・敲石などを採集していることが、『三鷹市史』(1970)で紹介されています。また、昭和23(1948)年には、地元中学生や近辺の高校生らによって大沢から小金井市にかけての南梶野遺跡が発掘調査され、縄文時代の中頃の大集落のようすを伝えています。
 昭和37(1962)年には水道工事、昭和43(1968)年にはガス工事に伴って調布境の御塔坂横穴墓群の発掘調査が早稲田・国学院・国際基督教大学の学生らによって実施されました。 また、昭和49(1974)年には東京都教育委員会により天文台通り沿いの東側斜面地から現在でいう原横穴群が発掘されました。発見の人骨は物議をかもす新聞記事となりました。天文台構内の市内唯一の高塚古墳の学術調査が行われたのもこの頃のことです。そして、昭和53(1978)年に私ども埋蔵文化財調査室が発足し、現在に至ります。
 遺跡とは大地に刻まれたの土地の「由緒」
 遺跡は、地下深くに埋まっているため、通常は私たちの目に触れることがありません。しかし、工事や発掘などによって、ひとたび遺跡が知られるようになると、私たちの印象や記憶において、一帯の空間が特別に思えてくるから、これまた不思議なことです。これが大地に刻まれた「由緒」を認識するはじまりです。
 大沢の地域は、100 年もの昔に最初の「由緒」が発見されました。先達が野川に目をつけ、先人の思いに同化しながら遺跡を捜し求めた早期の発見、これが今でも大沢に遺跡が多く残っている、また宝庫と評される大きな理由のひとつとも考えられます。
  100年後、大沢の人々の心の中にも「由緒」が生き続けていることを願いつつ、当調査会は今、市の教育委員会の指導のもとで共に発掘調査を進めています。
 ひとまずこの連載は今回で終了します。また機会があれば、大沢の、あるいは三鷹の明日をご一緒に考えたいものです。
昭和37(1962)年
御塔坂横穴墓群の調査に集まる人々
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