北野村が鎮守としていた神社は、下仙川村にあった八幡社( 調布市緑ヶ丘2-5-5)です。菩提寺は、昌翁寺(しょうおうじ・ 調布市仙川町3-1 )でした。八幡社の創建時期は不明ですが、『風土記稿』によると、次のように記されています。

八幡宮、社地除八畝で村の北にあり、二間四方の覆屋、神体木像一尺二寸、昌翁寺持

  八幡社の境内には富士講碑が立っており、その銘文には、北野講中の7名の名が刻まれています。富士講とは、江戸時代に流行した富士山とその神霊を対象とする信仰で、富士詣りを行なったり、富士山に似せた築山を築くこともあります。
  昌翁寺は、下仙川村を治めていた飯高主水貞政が、建立しました。飯高貞政は今川義元の家臣でしたが、後に徳川家康に仕え大阪の陣の戦功により旗本となり、下仙川村を収めることとなります。門前には元禄時代(1688〜1704年)の庚申塔2基と宝暦(1751〜1764年)の廻国塔が並んで建立されています。

■ 庚申信仰と庚申塔

  道教の教えによると、人間の体の中には、生まれた時から三尸(さんし) という虫が住んでおり、三尸虫は、宿主が死ぬと身体を抜け出して天に帰れることから、庚申の日には、寝ている間に三尸虫がはい出して、天帝に宿主の悪行を報告し、寿命を縮めてくれと頼む、といわれていました。 そこでその日は眠らないこととし、村人たちが集まり、夜通しで庚申講を行いました。 庚申講を3年続け、18回に達したら、記念して庚申塔を建てることが多かったようです。
  庚申信仰は日本では9世紀の文献の記録が最も古く、平安時代には貴族社会で広く流行し、鎌倉時代から室町時代には上層武士階級にも広がっていました。 15世紀頃には、仏教と結びつき、江戸時代には仏教式の庚申講が広く行われるようになりました。

■ 北野庚申塔のモチーフ

 北野の庚申塔には青面金剛(しょうめんこんごう)像が祀られたものが2基あります。青面金剛は、道教由来で、庚申講の本尊として祀られることが多い神様です。いずれも合掌し、右手に戟(ほこ・法具)と矢、左手に宝輪(ほうりん)と弓、太陽と月と三猿が刻まれています。1基は文字で「奉供?(養)青面金剛庚申需為」と印刻されています。
 三猿のモチーフは古代エジプトやインドにも使われているものです。「論語」にも「礼にあらざれば、見るなかれ、言うなかれ、行うなかれ」の一節があります。 庚申に申の字がついていることから、庚申信仰と結びつき、三戸虫に対して、見ざる、聞かざる、言わざるのメッセージを託しており、青面金剛の足元に描かれることも多くあります。

北野庚申堂(北野4-15)
延享元(1744)年造 宝暦13(1763)年造 享保9(1724)年造 延宝8(1680)年造


三鷹市内庚申塔所在地


■ 北野村の八王子仙人同心と天然理心流

 八王子千人同心は、徳川家康が江戸に入府した際に組織され、甲州街道の宿場である武蔵国八王子を拠点とし、武蔵国と甲斐国との国境警備と治安維持を主な任務としました。後に、徳川家の菩提寺である日光東照宮の警備も担っています。平時は農耕が仕事で、年貢も課せられていますが、千人頭は旗本として、組頭は御家人として、処遇されていました。
千人同心組頭二宮光鄰が嘉永七年 (1854)に作成した 「千人同心姓名在所図表」には、北野村所属の同心職二名の名が記載されており、当時の北野村にも千人同心がいたことがわかります。

      北野村 小坂勘右ェ門 / 板谷弥市

  天然理心流は、家元の近藤家が千人同心であったことから、同心職の中にも天然理心流の使い手がいました。天然理心流は剣術で知られていますが、柔術、縄術、棒術などを含んだ総合武術です。 新選組を組織した近藤勇は、天然理心流の四代目の師範です。下仙川村(調布市)田辺正三家文書の「剣術稽古覚書帳」には、近藤勇が北野村へ出稽古に来ていたことが記されています。