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ミニ解説シリーズ

遺跡・遺構・遺物とは
掘れば必ず遺跡にあたる?
 遺跡の発掘調査をしていると「どうしてここが遺跡であるとわかるか」という質問をよく受けます。古墳のように地上に顔を出しているものは別として、殆どが地中深く埋まっているものを掘り出すわけですから、確かにそういった疑問が沸くのも当然です。
 実をいうと、ひとつには、人が住み(使い)やすい場所とは今も昔もそう変わらないということです。洪水のない所とか、水はけや日当たりがよいなどの自然条件を考えているようです。特に旧石器時代とか縄文時代のように、自然と共生して頃の人たちは、河川や湧水地が近くにある高台が最も好まれたようです。三鷹でいうと、野川や仙川、井の頭池や神田川などの周辺地には沢山の遺跡がありますし、竪穴住居などの家の跡も多く発見されています。
 もうひとつは、発掘調査をしている場所というのが、実は家やマンションを建てるなど、何か工事が予定されている場所で、前もってその場所の試し掘りをやって、遺跡の手掛かりをつかんでから本格的な発掘調査をしています。皆さんがテレビや現地で見かけるのは、この本格的な発掘調査の段階ですから、いつも発見されているように見えるのでしょう。

どんなものが遺跡?
 では、どんなものが遺跡なのでしょうか。それは、人間がかつて、何らかの行動・行為をした場所、をいいます。一般にはそれらの一端や証が今に残っている場所をいいます。
 遺跡には、同じようにみえても実のところ、そこでどのような営みがあったかによって随分と違った種類があります。狩猟などでのキャンプ地などの小規模なものから、石器を作った場所や土器や瓦を焼いた窯跡、人が暮らした集落や居館(城跡)、陥(おと)し穴による狩猟場、古墳群などの墓域など、さまざまな様子を残しています。この他にも、石器づくり欠かせない黒曜石や土器づくりのための採掘穴、あるいはドングリを水さらしした湧水池を取り込んだ遺構なども近年発見されていますが、これらも人間が大地と関わった重要な場所と考えられています。

発掘調査でどこまでわかる?
 遺跡の見学会などでは、何時代の遺跡で、この穴は狩猟用の陥し穴であるとか、この土器は煮たきに使用されたなどと解説があります。これらは、今までに発見された類例や研究の成果をもとに語られるているわけです。遺跡の発掘調査ではこうした基本的事項のほかに、遺跡における遺構の位置や配置、土器などの遺物の出土の仕方、堆積している土層との関係などが、大きな関心事となります。
 例えば、土器が穴の中にそのまま埋められていたとか、一部分が故意に壊されていたとか、当然あるはずの生活用品のひとつがないなど、そこで暮らしていた人たちの生活様式のほかに、どんな習慣や規則(規範)があったのかなども推測していきます。発掘調査の時間の多くはこうしたデ−タ収集に充てられています。「遺跡からこんなことまでよくわかるのね」と言われるのは、こうした緻密なデータがあってのことなのです。
なぜ縄文時代・縄文土器とよぶのか
縄文時代とは
 昨今、青森県の三内丸山遺跡や鹿児島県の上野原遺跡などの発見で、これまでのイメージを塗り替えた新しい「縄文の世界」が問われています。
 縄文時代とは、火山活動が下火となる、今から1万2〜3,000年ほど前から、弥生時代のはじまる紀元前3世紀頃までの間、日本列島に固有に発展した文化をもつ時代をいいます。地質学でいう更新世末期あるいは沖積世(完新世)初頭以来の時代であり、一般に言われる新石器時代にほぼ対応するのですが、世界的にみるととても個性的な文化であるため、日本ではこの時代をふつう縄文時代と呼んでいます。

何故「縄文」とよぶのだろう
 日本における最初の学術研究として発掘調査されたのは、大森貝塚です。発掘したE・S・モースは、出土した土器を“cord marked pottery"と記して報告し、その後、それは「索紋」と訳され、後に同じものを別の学者は縄目の文様を特徴とする素焼きの土器という意味で「縄紋」と呼びました。これが、今日の一般的な呼び名である「縄文(縄紋)土器」の先駆となりました。
 この土器の名が時代表示に使われたのは、土器が、文化の内容や背景をよく反映していると考えられたためです。ちなみに後続の弥生時代は、文京区弥生町で最初に発見された土器によりますが、この時代は、土器が最初に発見されたその地名をとって弥生時代と呼んでいます。しかし、次の古墳時代には、土師器や須恵器などの土器が登場してくるのですが、この時代の表象(特徴)は「古墳」であると考え、一般には古墳時代と呼ばれています。

縄目(縄文・縄紋)のない土器は何?
 縄文土器と呼ばれる中には、貝殻で引っかいたもの、粘土紐や竹を割いた先を使ってデザインしたもの、それに文様のないものなどもけっして少なくありません。地域によっては、全く「縄文」が採用されなかった時期さえもありますし、一方で、弥生時代にも「縄文」が一部の地域で好んで採用されている例もあります。
 つまり、「縄文」が有ることを根拠に縄文土器だ、ないのは弥生土器だという判断ができないことになります。となると、その区別は、器面を飾る他の文様やデザイン、器形、焼成具合などを仔細に観察することになります。博物館などで根気よく比べて見ることをお勧めします。
 しかし、縄文時代の終わり頃のものと、弥生時代の初期のものとは、区別がしがたいものがあります。土器づくりに大革命があったわけではないことが理由ですが、実は、土器や文化のとらえ方に対して研究者間で解釈や考え方に違いがあるためさらに複雑となります。つまり、時代とともに変わる要素もあれば、引き継がれものも多い訳ですが、どの要素を重要視するかによって、研究者間でも答えが違ってしまう。そのため、1つの土器だけを取り上げて、どちらの時代のものかを決定するのは、とても難しいことです。
人類最初の造作物−竪 穴 住 居−
人類最初の造作物
 旧石器時代後期に登場する竪穴住居は、新石器時代以降では代表的な形態で、世界的にみても一般的に造られている住居の形態です。住居には洞窟や岩陰も利用されていますが、それは自然の造形を利用したもので、この竪穴住居は外界(自然や社会環境)から自らの生活の要求を区画し、限定するための人類最初の造作物といってよいでしょう。建築学上からみても、建築の基本的要素、つまり床・柱・屋根・壁をもつことはとても重要な意味をもっています。
住居のかたち
 地面を半地下に掘りくぼめ、その底面を床とし、柱を立てた上で円錐形や寄棟造、切妻などの屋根構造をもつ住居を竪穴(式)住居と呼んでいます。  竪穴式は保温や屋内の空間を有効にするためのものであったようですが、湿気はとても強いと言われています。そのため、篠や茅などの敷物の利用や、まわりに溝を掘って直接の湿気を防止したり土間の乾燥を保つ工夫も見られるものもあります。また、床面を屋外の地表より若干高くつくり、床の周囲に土堤をめぐらした「平地住居」というものも作られています。ただ、遺存状態が悪いため、発掘調査でその構造を知ることは難しいものです。  竪穴式は縄文時代以降、平安時代までつくられ、その後、掘立柱建物へと移っていきます。

竪穴住居跡のかたち
 竪穴住居の平面形態は、円形・方形・隅丸方形・不整形などがあって、時代や地域によっても異なります。床面積は20u前後が一般的で、特殊な大形住居を除き、ふつう間仕切りのない、現代風にいうと、ワンル−ム(1K)ということことになります。  ただ、季節や一日の時間帯、あるいは作業内容や構成員の違いにより多様に使われていたと考えられています。なお、1軒の構成人数は住居の拡張行為(増築)や突発的な事故死の状況で発見された出土人骨などから4〜6人程度と考えられています。

竪穴住居内の施設と情報
 住居内の施設には、炉や貯蔵穴、周壁の上部を利用した棚などがあります。炉には石囲い炉をはじめ、土器の下半分を壊して転用したもの、ただ土を掘りくぼめただけの地床炉などがあります。古墳時代の中頃には、カマドが一般には作られるようになります。
 竪穴住居は、住居形態を知る手がかりとなるばかりか、生活用具などの遺物が、半地下に掘られた凹地から多量に出土することが多いため、それらの出土状態や土層の観察などから、住居に関わった人の行動の一端を知ることもできるなど、多くの情報を引き出すことのできる重要な遺構の一つです。さらに、遺跡内に多数発見される住居の配置から、集落(ムラ)の様子を知る大きな手掛かりを与えてくれています。
人形に託す祈り−土 偶−
 土偶(どぐう)とは、縄文時代の土を焼いてつくった人の形をした土製品の総称です。時代や地域によって形やデザインも多彩です。なかには空洞につくり幼児骨の容器としたものなどもあります。三鷹の出土品と同様に多くの例は、女性特有なプロポーションを描出しています。また「妊娠」を思わせるお腹の大きなものも少なくないことから、生殖・豊穰・繁栄に関わる「女神像」「地母神信仰」の対象物という説があります。また、五体のどこか一部が欠損して出土するのが多いことから、疾病・傷害などの身代わりとして一部を故意に破壊・損傷したという説や、最近では、分割と分配によって、あらゆるものの再生を祈願したとする説。さらに、ハート型やみみずくの顔をしたかわりものや、イヌイットの雪眼鏡に似た遮光器(しゃこうき)土偶のニックネームをもつもの等、「ヒト離れ」した造形のものに着目し、「性を超越した精霊の仮の姿」と考える学者もいます。まさに、縄文人の呪術(じゅじゅつ)、まつり、儀礼を象徴し、縄文人の心を解きあかす鍵となるものといえるでしょう。
 三鷹では、これまでに市立第五中学校遺跡、坂上遺跡、I.C.U.構内遺跡そして最近発見された丸山A遺跡の4箇所から出土しています。