江戸時代後期に編纂された地誌である『新編武蔵(国)風土記稿 (以下『風土記稿』と記します。) によると、北野村は、下仙川村 (現:調布市仙川町周辺 )の農民により、寛文年間(1661〜1673)の末頃に開墾、開村されたと記載されています。この時期は、江戸幕府の指導もあり、武蔵野台地の新田開発が盛んに行われた時期にあたります。『風土記稿』によると開墾された当初は原仙川村と呼ばれており、元禄8(1695)年の検地後に、北野村と命名されたようです。北野の名の由来は、開墾した人々が住んでいた下仙川村の北に位置するためです。開墾当初の民戸は72軒と記されています。

                 『新編武蔵風土記稿』「北野村」

                   『新編武蔵風土記稿』「下仙川村」


                    江戸時代近村相関図

■ 村名の変遷

  北野村は下仙川村の出身者によって開墾されていますが、この地域は上仙川村、中仙川村と合わせ、仙川郷と呼ばれていました。江戸時代後期に編纂された『風土記稿』には、仙川郷の三村の村名の由来は定かではなく、検地が行われた年代も、村が三つに分かれたのも「古きことにて」すでに不明であると記載されています。仙川郷に関連する村としては、この他上仙川村から分かれた野川村(現新川・牟礼の一部)があります。『風土記稿』から読み取れる仙川郷に因む村の変遷は、図のようになります。

北野村に因む村の変遷図

■ どのような村であったのか

 江戸幕府は、日本全国の郷帳(ごうちょう)を作成しています。郷帳とは、幕府が年貢を徴収するうえで、最も重要な帳簿のことです。北野村が一村として記録されるようになるのは、元禄年間に作成された『元禄郷帳』からです。北野村は元禄8(1695)年に、織田越前守信久に検地されており、『元禄郷帳』によると、北野村の石高は203石1斗3升6合(約30トン) でした。石高は元禄8(1695) 年に行われた検地から江戸末に行われた検地までほぼ一定ですが、明治初(1867)年に行われた検地による『旧高旧領取調帳』によると、212石5斗7升6合となっており、収量の増加がみられます。
  江戸幕府は江戸を中心とした全国交通網の整備に着手し、宿駅制が徐々に敷かれるようになりました。宿場が整備され、人馬の提供を義務とする宿場の助郷が生じてきます。助郷とは、宿場が常備している人足・馬の定数以上に人足や馬の需要が生じた場合、これを補い負担することです。北野村でも高井戸宿の助郷の負担が課せられており、宝永2(1705)年の助郷高は、203石でした。

北野村・下仙川村石高変遷