北野遺跡は、蛇行する仙川の北岸の安定した台地上から低地にかけて位置しています。 昭和42 (1967)年に三鷹市史編纂事業として、また昭和44(1969)年に中央自動車道建設に伴い発掘調査 が行われ、 縄文時代早期及び中期を中心とする集落跡から膨大な量の縄文土器や石器が発見されています。 発掘調査の契機となったのは、地元の農家の方より所有の畑からおびただしい量の土器が出土するとの 情報が寄せられたためでした。これらの調査の成果は、昭和45(1970)年に刊行された『三鷹市史』に、 掲載されています。この時期は全国的にも遺跡の発掘調査が盛んに行われるようになる埋蔵文化財の黎明期にあって、北野遺跡は三鷹市ばかりでなく、武蔵野台地を代表する縄文時代の集落跡として、地域の歴史を見直すきっかけとなる遺跡となりました。

■ これまでの発掘調査より

  住宅開発等に伴う発掘調査により、資料が少しづつ増加していきました。平成24(2012)年から東京外かく環状道路の建設に伴い調査が行われました。この調査の結果北野遺跡は、旧石器時代、縄文時代、中世・近世にまたがる複合遺跡であることが明確となりました。資料の数は、飛躍的に増加しました。
仙川の低地沿いで確認された中世・近世の遺構群は、この時期に仙川郷とよばれた地域の開発が、仙川沿いの低地部分の水田開発を主とするものであることを、裏付けるものとなりました。
  また、今回の工事により移転することとなった北野庚申堂跡地からは、近世以降の陶磁器類が膨大な量が(テンバコ約56箱)、出土しています。

北野遺跡発掘の様子
【昭和42(1967)年】
旧北野庚申堂遺物出土状況

■ 先史時代

 仙川沿いの台地斜面のおよそ3万年前の関東ローム層中から、北野遺跡で最も古い人類の生活の痕跡が、みつかっています。同じ地点から5つの時代の層が発見されており、その各層からは、生活の跡が発見されております。湧水環境に恵まれた北野の土地を、氷河時代の旧石器人が繰り返し利用していたことがわかります。
  縄文時代では、中期(約5千〜4千年前)のムラの跡が見つかっています。このムラは、仙川を挟んだ対岸にある市立第五中学校遺跡とほぼ同じ時代のもので、川を挟んだ両岸を、縄文人が住み分けていた可能性を示しています。2つの住居跡群が同じ生業領域内で共存するようなあり方は、珍しく、貴重です。
  住居跡の使用年数や、移動の理由を示す証拠、二つの集団の差異の抽出の問題など、これらの説の検証には多くの課題がありますが、千年近い間、縄文人がこの場所を継続的に利用していることは事実で、そのような遺跡は武蔵野台地でもそう多くはありません。近年の北野遺跡の調査によって、この集落の全貌がようやく解りはじめ、5千年前の北野のムラの実態が究明されようとしています。

V層石器(槍先形尖頭器)
北野遺跡出土
 旧石器時代
W層石器(石核) 
北野遺跡出土
旧石器時代
勝坂式土器 
北野遺跡出土 
縄文時代中期
称名寺式土器
北野遺跡出土
縄文時代後期


北野・市立第五中学区遺跡縄文時代以降分布図